イタリア紀行

先の建築家が『イタリア紀行』について記していたのを思い出して、岩波文庫を探し出し、ヴィチェンツィアの部分をざっと読み直してみた。文庫には第1刷が1942年とある、ちょうど今放送されている「カーネーション」の時代。戦間期であっても本は出版されていたということか。非常の中の日常というものがあったのだろうが、不思議な感じもする。

パラ―ディオが亡くなって二百年余後、今から二百年余遡る時代に、ゲーテはレーゲンスブルグからほぼ直線的に南下してブレナー峠を越えてイタリアへ出奔した。日本ではちょうど田沼意次が失脚した頃。そして11年後の1797年、ナポレオンの軍隊によってヴェネツィア共和国は滅亡する。
ヴィチェンツィアにゲーテが滞在したのは、イタリア紀行によれば、1786年9月19日から23日。初日にテアトロ・オリンピコ、バシリカ、22日にロトンダを見、27日にはパドヴァにてパラ―ディオの作品集を手に入れている。テアトロ・オリンピコについては「えもいわれぬほど美しい」とあるのだが、ロトンダについてはあまり高い評価は記されていない。
10月2日、カリタ修道院。「これ以上に高尚なもの、これ以上に完全なものを私はついに見たことがなかったとすら思う」。3日、イル・レデント―レ教会。「美しく偉大な建築であり・・・」と。手に入れた地図をもとにヴェネツィアを歩きまわるゲーテの姿がそこにある。

「・・・こういう作の偉大な価値というものは、それを眼の当り見て初めて解るものである。けだしそれらは実にその現実的な大きさと具体性とによって見る人の眼を充たすべきであり、抽象的な正面図においてのみならず、さらに遠近法上、近い部分と遠い部分が、常にその三次元の美しい調和を有することによって、人心を満足せしむるべきものであるからだ。」

でも凡庸な生身の人間としては、もう少し違った視点からの記述があればと思ってしまう。ロトンダについて「内部は、住めば住むこともできるが、住み心地がよいとはいえない。」とあるが、それは具体的にどういうところなのだろうかと。

イタリア紀行(上) (岩波文庫 赤405-9)

パラ―ディオを語る建築家

パラ―ディオについて前に少し書いたが、そのパラ―ディオに関連する動画を。

磯崎新という建築家をして、30年近く経たなければパラ―ディオが何故重要だと言われていたのか、分からなかったと言わしめている。
何故16世紀のひとりの建築家が現在においてもこれほど興味深い対象として扱われるのだろうか。

「建築の真髄に迫りうれた数少ない建築家のひとり」、「パラ―ディオがローマの建築を学ぶことから始めて彼の道を切り開いたように、パラ―ディオを研究することから自分の道を探してこれたのかもしれない」。

何故500年前に生まれた建築家の残したものが現在性を有するのか。
「特殊な歴史的コンテクストに深く規定された特異的な作品や思想が、普遍的な妥当性を帯びて現れるのはなぜなのか?」、大澤真幸は著作の中で、これを謎と呼んでいる。そして、その後数行にわたってすごい興味深い文章が続く。それらの作品はその特異性ゆえに普遍なのだと。

では、「それは、どこから来るのだろうか?」

ヴィチェンツア

雑誌でパラーディオの特集が出たのでしばらく考えてから購入した。

考えた理由はまた本棚に置いたままになるのではということと、パラ―ディオに関して知ることが実際の仕事とどう結びつくのかという功利的な考えがあってだが、買わなくてあとになって入手が困難で後悔することが面倒で結局注文してしまった。

パラーディオに関してはリプチンスキーの翻訳本は持っているのだが、それは図版とか写真があまりになくて文章を読む時によすがとなるものが少なく途中で読むのを断念したままになっていた。
注文する前後ぐらいにHOMEという雑誌にあった「パラディオ」の特集を見返しているとラ・ロトンダ紀行という文章(それもリプチンスキーの上記の本からの引用、ただし別の人による翻訳だったが)の上に VILLA BARBARO とキャプチャ―のある内観写真があって、それを見た時、少し前に久しぶりに訪れたある建物のことを思い出していた。

頼んだ雑誌が届いて、当然VILLA BARBAROは載っているだろう思ってめくって見たが、それらしき写真はなく、よくよく目次を見ればヴィラ・バルバロという項はなかった。
仕方なくインターネットでヴィラ・バルバロのホームページを探してみると、どうやらワイナリーとして使われているらしくその宣伝とガイドツアーの記述はあるが残念ながら内観写真は見当たらない。ワールド・ヘリティジの文句が虚しくトップを飾っている。他にネットにないかと思って探してみたがそれらしき写真は見つからなかった。

今のところそうした訳で、リプチンスキーの文章と雑誌の写真からその空間を想像するしかない。文章に、バルバロに関する建築家の二番目の図面に「十字形の広間」とあるので、それが内観写真の場所のことなのだろう。

皮肉めいて、「・・・このように口出しすることの多い施主は、たとえそれがよい意図にもとづくものであっても、建築家の仕事をかなりやりにくくするものである。パラ―ディオは後に、建築とは、「誰もが自分なりにわかっていると思いこんでいる仕事」であると書いている。」。
パラーディオの作品としては控えめでなく「禁欲的なたたずまいが欠けている」のはこの口出しのせいであると。
でも「たとえこれが彼の作品の中で最もよくできたヴィラではなかったとしても、これは確かに最も快活なヴィラである。」と結んでいる。
抑制を欠いたフレスコ画が足されていたとしても、それはそれで楽しい空間なのだろう。「ヴェロネーゼの傑作であるフレスコ画のおかげで・・・見物客の多いヴィラとなっている」、一般にはヴェロネーゼの絵のほうがアピールするということらしい。

ただその内観写真を見た時にフレスコ画ではなく、ヴォ―ルト天井の白さとその突き当りの白い壁に穿たれた窓、それが八ヶ岳にある美しい小さな美術館に通じるものを感じたのである。
似ているのは偶然でしかなく、しかし、美しく感じるのはそこになんらかの共通性、そして必然性があるからなのだろう。

完璧な家a+u (エー・アンド・ユー) 2011年 11月号

茶の間からリビングへ

本棚に詰め込んであったりした本の中から建築に関する本を取り分けて事務所の本棚に置いてみた。このままではまた読まないままになると思い、少しずつ読み始めることとした。そのひとつが西川祐子の『住まいと家族をめぐる物語』である。本書は大学での学生との共同作業=講義を下地にしているとのことである。
前の記事で「カーネーション」のことを書いていてちょうど歴史的に重なる部分もあって、そんなことも思いつつ読んでみた。

カーネーション」は今1938年頃を描いているが、「満州事変、日中戦争、太平洋戦争と続いたいわゆる十五年戦争」という記述があって、十五年戦争と考えると戦争中ということになる。どうも真珠湾攻撃からを戦中と考えてしまい、それ以前を戦前と思って見ていたが、それは日米戦争という定規でみた場合であってもっと別の尺度からの物の見方のほうが当たっているのかもしれない。すでに主人公たちは統制経済の中にいるのだから。

さて本書に戻ろう。要約すると(少し乱暴にすぎるかもしれないが)、戦前の「茶の間のある家」(建築史では「中廊下のある家」、その前の庶民の家と較べてみてもらえば廊下の意味が分かってもらえると思う。)は男(夫)の管轄する「男の家」だったが、戦時期に「国民」(の労働)を総動員するために分離就寝が必要となって(夜勤するため眠れないと困るので)機能主義的な家、「戦時住宅」が考えらえ、それが戦後の公団住宅の2DKの祖型となったこと。そして2DKは「「男は会社、女は家庭」」ということで「「女の家」のはじまり」なのだと。そして2DKは3LDKへと繋がって「リビングのある家」=「女の家」となった。それが今までの流れで、では、これからどうなるのか・・・と。

最後の章で西川は、これからは「人は住まいに住むというより、街に、あるいは地球に住む、と言うべきかもしれない。」と語っている。その意味することは、古臭い今までの「建築家」というあり方も変わらなければいけないということなのかもしれない。

「住むとは、生きることである。」。9.11以降の戦争、その「息苦しい時期」において「住むことについて論じながら」学生たちに生きることの大切さを伝えようとしたのである。
住むことが生きることならば、生きることに住むことが齟齬するようなことがあってはならないということである。
それでは、住宅をつくる、ということを第一義にしないで、住むということを根底から考え直しつつ、でも住宅をつくる、にはどうすればいいのかということを考えてみようと思う。

住まいと家族をめぐる物語 ―男の家、女の家、性別のない部屋 (集英社新書)

カーネーション

NHKの朝ドラにはまっている。たぶん理由は二つ。

ひとつは主人公がものづくりが、この場合は洋装なのだが、好きだというところ。それを商売にしているのだが、でも根底がそれによって儲けることではなくて、自分の作った洋服を着た人が喜んでくれることのほうに喜びを感じるというところ。

もうひとつは、岸和田の風景の中の生活にある。和服から洋服への変化、電気製品が入って来て、特に電気扇という呼び名にそうだったんだなんて思いながら、でもまだ共用の井戸があってそこでたぶんみんなで洗濯なんかしていたんだろう、とか・・・当時、水道はどうだったか?風呂はたぶん公衆浴場だろうしトイレはとか、想像してみるといろいろ気になるのだが、ともかく当時の庶民生活の様子が描かれているところが面白いのだ。
女性が自立するのに、この服装と家事労働の変化が大きく影響したんだろうことは想像に難くない。ちょうどそうした時代に主人公は育ち、たくましく生きていく。その生き様がなんとも格好よくて魅かれるのである。

自分で町屋の格子を取っ払ってショ―ウィンドウにしてしまうのもすごい、それで明るくてすっきりした店になるのだが、今となるとその格子とか入口の土間とかのほうがなんとなく懐かしい。板の間との間の上り框に腰かけて話しをするのは、履きモノを脱がなくてもいい気軽さがある。それは田舎で農家の縁側に座って近所の人たちが茶飲み話しをするのと同じである。土間がそうした外でもなくて内でもない、あいまいな心地よい場となっている。そこがまたドラマの中でよく表現されている。

ニ階建の軒入りの町屋が並ぶ街並み。近所の人たちも自分のところで商売をしていてそこで生活をしている。自分たちの住んでいる町の中で十分生活が成り立っていたのがわかる。でも時代はどんどん変わっていく。主人公の同級生の男の子は学校を卒業して工場に働きに出るのだが(なるほど学校とはこうした労働者の養成機関なのだなと)、彼は工場でのつらい労働に耐えられなくなってやめて近所の和菓子屋に勤め直す。
働く場所が自分の家や街ではなくなっていく。こうして生活の場と職場が分離し始める。あるいは買い物でも、ちょっといいものは大阪の百貨店に出かけるようになり、町の中で成り立っていた生活がその外に否応なく拡がって行く。こうして少しずつ町がほころびはじめていく。

これからの展開、戦争に突入してそれから戦後、どのようにこの生活風景が変わっていくのか、昭和という時代の庶民の生活史として見てもすごく興味のあるドラマである。

蛇足で、街並みとか生活とかかなりしっかり時代考証されているなと思ってネットを調べたらカーネーション公式サイトのページに記述があって、なるほどである。

カーネーション オリジナル・サウンドトラック