音楽を聴く場所(2)

自分の使う言葉で書かれたものを読めることを幸福に思うのは、夏目漱石須賀敦子とかの文章を読むとき。
次にこうした本、行間が多くあるテキストに会えたときにはありがたく思う。行間に多くのものがあるとき、書かれる過程で失われたもの、付け加えられたものはもちろん書いた者の意識的な技巧さえもある程度読みとれること。『小澤征爾さんと、音楽について話をする』はそんな本のひとつである。

「わかっていると思っていたことが、実はわかっていなかった、ということがわかった」(p149)

この本はクラシックに全然造詣はなくても読み進んでいける。いけるような気がする、が正しいかもしれない。分かったような気がするのは「実はわかっていなかった」に通じている、たぶん。読み進められるのは、言葉の起こし方ゆえだろうか。それとも始まりの切り方、導入の仕方か。ただマーラーのところでは足踏みしてしまう、読み進めがたい。もう一度最初からザーッと流し読みをして第四回に入り直してみた、跳び箱で飛び損ねた試技者のように。昔は気になるところには線を引いていたが、それをしなくなったかわりに必要に応じて付箋を貼り付けるようにしている。今回も読み直す時に付箋をつけてみた。マーラーのところに付箋がたくさん付いていく。そこが噛みごたえがあったということだろう。

この本ではモノ自体がダイレクトに前面に出ている、とでも言えばいいのか。音楽を譜面からその時代背景や歴史的な流れを問わずにダイレクトに弾かせようとするスコアの前の指揮者と、収集されたレコード等の音源(モノ)の中から辞典のようにそれらを平面上に並べて見せる小説家。
小澤が「ウィーンにしばらく暮らしてみて・・・実感として理解できた」というマーラーとシーレの同時代性。バーンスタインが50年前1960年代にマーラーに取り組んでいた時に横にいて「そういう音楽が存在したことすら…知らなかった」のが、「三十年くらい前から」自分自身がウィーンに居を構えてクリムトやシーレを観たことで「なんかよくわかる」へとシフト。
美術館に通うことで「同じ時代」を認識したというのは理解できる。わからないのは、書かれているとおりだとすれば、ニューヨークで彼はスコアを通じてまずマーラーを知る。そしてバーンスタインによる演奏で「マーラー復興」を体験していたにもかかわらず、それから20年してようやく背景にある歴史を感覚的に認識するまでの間マーラーの音楽をどう解釈していたのかである。

この認識以前に彼の前にあったのはスコアというモノとその文体上にある純粋な音楽だったのだろうか。あるいはそれを写象すれば、音楽というものはそうした純粋さを持ちうれる、あるいはそれだけで成り立てるものだということなのだろうか。

小澤征爾さんと、音楽について話をする