文化的「一方通行」

建築という言葉の翻訳についてなにか書いてなかったかと思い『翻訳と日本の近代』を探したが見つからず近所の図書館で借りてきた。今は在庫検索というシステムがあって探すのに便利。さて借りてきた新書だが詳細な記述はなく、それは本のはじめにあるように『翻訳の思想』の解説のかわりに丸山真男加藤周一という碩学の「問答」をまとめたものだから仕方ないのだが。ただ明治初期の時代背景、江戸時代の翻訳についてと明治になぜ「翻訳主義をとった」のかについて、語っているので参考になった。それとなぜ晩年、加藤周一が講演会の時に儒教について論じていたのかおぼろげにわかったような気がした。

加藤が丸山の指摘に「明治人は必ずしも原文を読んでいたのではない、翻訳された本が身近にあったということですね。」と。明治の人は原書でかなりのところを読んでいたと思っていたのでその指摘は新鮮に感じた。もうひとつの指摘、翻訳された本が明治20年まで「歴史書が多い」とある。これは建築においてはどうだったのだろう。

青木哲人の論文によると、伊東忠太の1983年の「法隆寺建築論」が「近代日本における建築史学の最初の成果として評価される」とある。もしこれを日本の建築を歴史的に見るということだと考えるならば、その歴史的視座というものはどのように伊東に芽生えたのだろうか。それは「歴史書」のひとつの分類として、西欧からの建築史という概念を導入したということだろうか。それと「近代日本の」とあるがそれ以前に日本に「建築」史というものはあったのだろうか。建築=歴史ということ、「建築」の語源、そうしたものを問い直すところからもう一度、日本建築史を始めるべきではないのだろうか。

ちょうどNHKで『日本人は何を考えてきたのか』の第1回で福澤諭吉中江兆民をやっていた。テレビという制約上なのか放送時間の長さの割には希薄な内容で物足りなさもあったが。それでも、中江兆民が(1871年から74年の間)フランスに留学したことやルソーの社会契約論を訳し(1882年に)出版したこと、その当時にはまだ社会という言葉がなくて『民約約解』と訳されたことなどが紹介されていた。兆民はパリ・コミューン後の疲弊したフランスを見たということか。
この民という言葉に関して、先の新書に「複数と単数の区別がない、ということで思い出したのは民権のことです。「自由民権運動」は日本ではふつうの言葉だけれども、西洋人は訳すのに苦労する。・・・最初は非常におかしく感じるらしい。つまり、people's rightというのはないんだね。rightはあくまで個人の権利で、民権という意味にならない。」「そこに気がついたのは、またしても福沢なのです。民権とはいうけれど、人権と参政権とを混同している、と・・・人権は個人の権利であって人民の権利ではない、と・・・」

この複数と単数の区別の問題は翻訳に関して重要なテーマだということ。これを建築に当てはめると建築がarchitectureの訳語と仮定すると建築は観念の言葉であって実体的な建物ではない、だとすれば建築物という言葉自体がおかしいということになる。architectureの訳が建築ならbuildingに該当する別の言葉がないといけない。それは建物とか建造物であって建築ではない。

あとがきに加藤周一は「翻訳文化はまたその国の文化的自立を脅かすものではない。・・・翻訳は外国の概念や思想の単なる受容ではなく、幸いにして、また不幸にして、常に外来文化の自国の伝統による変容だからである。」と記している。

architectureの訳語として建築が精確であるかという問題とは別に、「建築」という言葉の使用がどのように日本の「建築文化」(これも変な言葉であるが)に影響を与えたのかも知りたいことである。

あとがきは、さらに続けて「文化的「一方通行」は・・・近代日本をも特徴づけることになったのである。・・・今日の日本は(1998年当時:引用者注)、明治初期の日本が解こうとした問題―翻訳と文化的自立、翻訳文化の「一方通行」と国際的コミュニケイションの要請というような問題を、異なる条件のもとで、解かざるをえない、ということになろう。」と。先程のテレビでアメリカやフランスで福澤諭吉や兆民を研究している学者が登場したのが不思議な感じがしたのは、いまだ自分自身のなかに欧米からの文化の受容という「一方通行」の観念が大きく存在しているせいなのかもしれない。

翻訳と日本の近代 (岩波新書)