背景としての1900年前後

フランスの第2帝政期における音楽についての本『音楽の<現代>が始まったとき』に1860年に徴税請負人の壁が取り払われパリ市が拡大すること、1841年からティエールによる外郭の建設とそれが1928年までに撤去されたこと、その時代1862年に遣欧使節団がパリを訪れたことが記されている。ではウィーンの城壁はいつ取り壊されたのかと思い調べてみると1858年とあった(エルラッハのカールス教会の近くに歴史博物館があってそこに城壁に囲まれたウィーンの模型があった)。ベルリンは1868年、明治元年まで城壁があったことになる。いわゆるべルリンの壁が1961年から1989年、ただこれは都市を守るためではなく東ドイツの「人民」が西ベルリンへ逃げ込むのを防ぐための壁であったのだが。その壁に面して西側の繁栄を誇示するようにベルリンフィルハーモニー、新ナショナルギャラリー、国立図書館が建設されている。東西ベルリンの再統合の時に中心となる部分に建設したという話しもあるが。わずか150年に満たない昔に江戸時代があってベルリンに城壁が残存していたのだと思うと、その後起こった歴史的事実の数々を想起すれば人間というものの蛮行に言葉がなくなる。

ティエールが列強による侵略を恐れてパリに城壁を再建させたということは1841年当時はまだ城壁が戦闘において有効な装置だったということなのだろう。だが1903年ライト兄弟の飛行からわずか10年ほどの1914年には戦闘機が登場する。大戦の1914年パリはドイツ軍によって空爆が行われた。既に城壁はなんらの防御手段でもなくなった。空爆の歴史は短いのだがその後に残った死骸の数は累々たるものがある。
15年戦争の時に出た建築雑誌には軍人による防空都市論が載っていたように記憶するがたぶんにたいした内容ではないだろう(よくは読んではいないが)。『カーネーション』にあったように日本の密集した木造住宅街では焼夷弾による攻撃には無防備そのものだった。レーモンドが戦争中にニュージャージーでつくった「日本の労働者住居」のプレファブはユタに運ばれ焼夷弾による爆撃実験の標的になった。1945年3月10日東京では空爆によって8万もの人々の命が奪われた、それを今度の震災の被害者の数と比較すれば(その比較が論理的にどうかの問題は置くとして)米軍の非道ぶりがよくわかる。
ティエールといえば、大沸次郎の『パリ燃ゆ』には無様にもプロイセン軍に捕まったルイ・ナポレオンとその後に出来た臨時政府による降伏、それに反対し革命自治政府を樹立し抵抗したパリの民衆の姿が活き活きとした筆で描かれている。蜂起は最後、自国の第三共和政の軍隊による虐殺で終わる、それが1871年トクヴィルがもう少し長生きであってこれを見たらどのような記述を残したことだろう。

ゼンパーはこの時代を生きている。1803年に生まれ、1849年のドレスデン暴動に関わり亡命、1869年ドレスデンの歌劇場が焼失しその設計を行っている。歌劇場は1878年に完成したが彼自身は翌年ローマで客死している。マルクスが1818年から1883年、パリ・コミューンに関する『フランスの内乱』を書いたのは1871年ドストエフスキーが1821年から1881年、有名な銃殺刑寸前の減刑は1849年である。

そう考えていくと今まで頭の中でばらばらだったものが繋がっていくようである。アメリカの南北戦争1861年から65年。欧米列強は日本に対し新たなアヘン戦争を仕掛ける余裕はなかったということである。その後、フィリピンは1899年からの米比戦争によって60万もの犠牲を出し植民地にされたし、仏領インドシナは1887年に始まっている。

この前の括弧付きの言葉について少し続けると、伊東忠太が造家学会を建築学会へ改称することを提唱したのは1894年、実際には1897年になされている。ただその前から建築という言葉は存在していた。