括弧付きの言葉

様々なところにその老建築家の残した跡をみつける。それはなにかの折り折りに道に迷った者たちが行くべき方向を尋ねてきたという証しであり、その多さが痕跡としてあるということなのかもしれない。「わたしは磯崎新というミラー・メイズのような始末の悪い迷路に誘い込まれ、以来ここから離脱することばかりを考えて長い道程を歩いてきた」と、内藤廣は述べている。道を尋ねたのはいいのだが、フェズにいる怪しい道案内人に会ってしまったようなもので、磯崎新という人をある一面トリックスターと考えれば、さらに深く迷い込んでしまったようなものであった。もっとも、道を尋ねようとしない人たちとってはそれは迷路でもなんでもないのだが。

括弧付きの建築という言葉について考えるということは、そのような迷路へ入り込んでしまったということなのだろう。建築という自明であるかのように思われている言葉をもう一度噛み砕いてみようと思ったところからこの覚束ない思索は始まった。答えは直観的にわかっているつもりでその答えにいたる道を描こうと考えていたのだが、今ではその路をどう描けばいいいのか分からなくなっている。自明だったはずの答えすらも少し怪しげな気配を漂わせはじめている。来たときの路をもう一度戻ればいいのかと思って振り返ってみればそこには今まで見たことがない風景が広がっていて、来たときの路すらわからなくなっている。直線的で明確な道などそこにはない。
朝、車の中ラジオで、ジグソーパズルは上から見て考えても仕方なくひとつひとつのピースを繋いでいくことでしか解きようがないというようなことを、誰の言葉かわからないが引用しているのを途中から聴いた。考えていたことを横から言われたようなかすかな驚きと、その前の放送にあったかもしれないなぜそうなのかという部分を聴き損ねたという少々残念な気持ちが残った。

歴史の授業は、建築の、うろ覚えであるが19世紀の近代建築から始まったと記憶している。それは当時にしてはちょっと他とは異なるプログラムだった。今はどうか知れないがその時代、ほとんどの建築史はパルテノンから始まって、ビザンティン・ロマネスクを経てルネッサンスバロック新古典主義、というエコール・デ・ボザールもどきの古臭いものだった。そして最後の方で日本の近代建築について言及があり、どうしてもそこにへたくそな継ぎ木の痕のように、違和感が残った(はずだ)。日本の建築を通史で記した本ではそこがでこぼこした記述になってしまい読む時に引っかかるようになっている。それは消化しきれない、繋がってないものを無理に繋げて説明しようとすることから生じるものだった。
ちょっと変わったプログラムはその無理やりを避けるため近代から始めていたのかもしれない、確かではないのだが。稲垣栄三の流れを汲む者としてもそれは正しい選択だったのだろう。

この日本における、翻訳の問題ではなく翻訳前の本来の意味としての「建築」とはなにかという最初の自問。さらにそこから副生せざるをえない疑問、始まりにおいて(日本語として)建築という言葉はその翻訳における、またその後の使用法はどうだったのかという問題があって、それは全く別に考察するべき事柄ではあるのだが、またその問題の始まりにおいて切り離せない切実な問題を内包している。

著書解題 ―― 内藤廣対談集2