『胡散臭い知』(1)

第二帝政ブルジョワ大衆社会」、『音楽の<現代>が始まったとき』(浅井香織著)の第1章第3節はこの言葉で始まる。引用を続けると「…は貪欲な視線の視線の交錯に支えられたものであったが、実はその視線は二重化という前代未聞の、だがこれ以降現代に至るまで猛威をふるうことになる作用を受けて、この時代に胡散臭い知を拡大させていくことになった。二重化の装置とはジャーナリズムである。」と。その後にナポレオン3世の「巧みな民衆操作」、ジャーナリズムの「自粛」(なんと暴力的な言葉だろう)、ジャーナリズムの「娯楽的傾向」「およそ他人の身振り全てが気になって仕方のない彼ら(引用者注:ブルジョワ)のくだらぬお喋り・・・(その)界隈こそ、ジャーナリストたちにとって…格好の仕事場」「経済力によって急激に社会の表舞台に登場してはきたが、生まれも育ちも粋であることの根拠にならない人々。彼らは粋であると自認したいがためにこうした外部からの言葉を切実に欲していたのである。」「現実に見ることのあとで、それがジャーナリズムによってどのように描かれているのかを見るという<見ることの二重化>」…このジャーナリズムの興隆はその基盤としてブルジョワ大衆(この言葉はその内に矛盾を孕んでいる)の識字率の向上に支えられていたとある。確かにアレクサンドル・デュマのような今でいうところのライトノベルが生まれるには、そうした娯楽文学を楽しむ大衆の存在が必要だったに違いない。

社会の表舞台に登場したブルジョワが王侯貴族を真似て音楽にいそしむ時その背景にはいつも自分自身の「審美眼」への不安があった。
岡田暁生の「音楽の聴き方』にも(浅井の本にあったように)「芸術批評という多分に胡散臭い職業」の成立の経緯が語られている。「封建時代の芸術創作は顧客(王侯ならびに教会)による芸術家の丸抱えであったのに対して、一八世紀の後半になると新興市民が鑑賞者/購買者として台頭してきた。…成り上がりの新興ブルジョワたちには審美眼などあまりなく、何を買えばいいか分からないことも多かっただろう。そこで生まれてきたのが、芸術のマーケットとジャーナリズムである。」
(若干勝手なことを言わせてもらうと、岡田の文章には時代とか場所とかが時々あいまいというか飛ぶというか、浅井の本がしっかり時系列が補足されているので余計に目立つのか、不明確な記述に流れるのを感じた。だからといってそこに記されていることから受ける示唆が有効でないということでは全くないが。)
続いて「…創作側からすれば、丸抱えしてもらえないなら、出来るだけ多くの買い手を獲得するべく、少しでも自分の作品を宣伝してほしい。そして買い手から見れば、マーケット…に氾濫している多数の作品のうち、どれが「いい」のか教えてくれるアドバイザーがほしい。こうして双方の利害が一致したところに、芸術ジャーナリズムは生まれた。」と。

岡田の「市民」は浅井の「ブルジョワ」に該当するのだろう。この市民は芸術をどのような形であれ金銭的なアプローチで物質的に所有することを主眼に考えている。20世紀アメリカの新興したブルジョワが大戦後の疲弊したヨーロッパで美術品を買い漁ったように。それに対し、浅井の文章の「ブルジョワ大衆」には二重の意味があるように思う。ブルジョワ大衆という全体とブルジョワと大衆という二つの階層。ブルジョワは「市民」なのだが、大衆は労働者階級を指している。マルクスのいうところの生産手段を持たない階層。

大衆は市民とは所有の仕方が違う。というか違わざるをえないのではないか。どのように?
これからは仮定である。大衆は、所有するのではなく(所有することは最初からあきらめて)消費するのだと。それはメトロポリタンミュージアムを創設した階層とそれを鑑賞しにのみ行く階層の違いとでもいえばいいのだろうか。

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)