茶の間からリビングへ

本棚に詰め込んであったりした本の中から建築に関する本を取り分けて事務所の本棚に置いてみた。このままではまた読まないままになると思い、少しずつ読み始めることとした。そのひとつが西川祐子の『住まいと家族をめぐる物語』である。本書は大学での学生との共同作業=講義を下地にしているとのことである。
前の記事で「カーネーション」のことを書いていてちょうど歴史的に重なる部分もあって、そんなことも思いつつ読んでみた。

カーネーション」は今1938年頃を描いているが、「満州事変、日中戦争、太平洋戦争と続いたいわゆる十五年戦争」という記述があって、十五年戦争と考えると戦争中ということになる。どうも真珠湾攻撃からを戦中と考えてしまい、それ以前を戦前と思って見ていたが、それは日米戦争という定規でみた場合であってもっと別の尺度からの物の見方のほうが当たっているのかもしれない。すでに主人公たちは統制経済の中にいるのだから。

さて本書に戻ろう。要約すると(少し乱暴にすぎるかもしれないが)、戦前の「茶の間のある家」(建築史では「中廊下のある家」、その前の庶民の家と較べてみてもらえば廊下の意味が分かってもらえると思う。)は男(夫)の管轄する「男の家」だったが、戦時期に「国民」(の労働)を総動員するために分離就寝が必要となって(夜勤するため眠れないと困るので)機能主義的な家、「戦時住宅」が考えらえ、それが戦後の公団住宅の2DKの祖型となったこと。そして2DKは「「男は会社、女は家庭」」ということで「「女の家」のはじまり」なのだと。そして2DKは3LDKへと繋がって「リビングのある家」=「女の家」となった。それが今までの流れで、では、これからどうなるのか・・・と。

最後の章で西川は、これからは「人は住まいに住むというより、街に、あるいは地球に住む、と言うべきかもしれない。」と語っている。その意味することは、古臭い今までの「建築家」というあり方も変わらなければいけないということなのかもしれない。

「住むとは、生きることである。」。9.11以降の戦争、その「息苦しい時期」において「住むことについて論じながら」学生たちに生きることの大切さを伝えようとしたのである。
住むことが生きることならば、生きることに住むことが齟齬するようなことがあってはならないということである。
それでは、住宅をつくる、ということを第一義にしないで、住むということを根底から考え直しつつ、でも住宅をつくる、にはどうすればいいのかということを考えてみようと思う。

住まいと家族をめぐる物語 ―男の家、女の家、性別のない部屋 (集英社新書)